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Japanese Society for Palliative Medicine
News Letter No.83
日本緩和医療学会ニューズレター
May 2019  83
よもやま話
死のふちで、いのちが響きあう〜日本死の臨床研究会教育研修に参加して〜
国境なき医師団日本 職員
国際ビフレンダーズ東京自殺防止センター 理事
マザー・アーキテクチュア 理事
宮原 契子
医療法人愛和会 愛和病院
萬谷 摩美子

「『日本死の臨床研究会』というところでやっている研修ワークショップに参加したい」。そう、職場の上司に伝えた時、一瞬、ミーティングルームの空気が固まった。
 私はもともとコピーライターで、現在は医療系NGOで遺贈寄付のマーケティングを担当している。広告会社時代から、ありとあらゆる商品や企業、そして寄付のマーケティングを担当してきた。が、遺贈寄付のマーケティングでは、「言葉が伝わる」実感をなかなか掴めずにいた。そもそもメッセージを伝えるべき相手、つまり自らの死と死後を思う方の本当の気持ちを自分が理解できているとは到底思えなかったのだ。それが「死の臨床におけるコミュニケーション」を学んでみたいと思った第一の動機である。
「そこまでしなくても…。老人ホームの広告などを見れば分かるのではないかしら」と渋る上司を説得し、前日から泊りがけで参加した研修は、結論から言えば、予想と期待をはるかに超えるものだった。仕事のヒントを得るという以上に人間としての生き方までも見つめ直すことになる忘れがたい1日となった。
 私の参加したプログラムのヤマ場は大きく分けて3つある。1つめは、参加者が事前に提出した「死の臨床のコミュニケーションに関する事例や悩み、疑問など」のレポートから1つ取り上げ、討議するグループワーク。2つめは、主催メンバーによる「死の臨床におけるコミュニケーション」についてのレクチャー(「傾聴ゲーム」などのミニワークを含む)。3つめは、死の臨床での患者と医療者のロール・プレイング(ペアでロール・プレイングをし、残りのメンバーがそれを観察する)のグループワークである。
 1と2におけるさまざまな対話、医療従事者を中心にチャプレン(教会以外の施設で活動する聖職者)もまじえた参加者と、現場経験豊かなファシリテーターの方々との対話は、今まで知り得なかった臨床現場の難しさの他、「傾聴」や「共感」といった対人コミュニケーションの基本についても新たな発見や理解をもたらしてくれた。しかし、とりわけ私にとって“魂を揺さぶられる”ほどの体験となったのが、3つめのロール・プレイングである。

 私のグループに与えられたのは、「緩和ケア病棟にいる末期がん患者さんの『死にたい(時に、「早く死なせてほしい」)』に対して、どのようにコミュニケーションを行っていくか」という課題であった。私自身は、数年前から東京自殺防止センターに関わっており、電話相談の現場で出会う「死にたい」にどう対応すべきかの原則は理解しているつもりでいた。すなわち、「死にたい」と言われたらその言葉を否定してはいけないということ、「そんなことを言わないで」ではなく、むしろ相談者の思いをそのまま受け止めて、「死にたいのですか。今すぐ死にたいと思っていらっしゃるのですか」と返していく、といったものである。しかし、頭で理解することと、自らのものにすることの間にはクレバスがある。たとえロール・プレイングであっても、目の前の人がつぶやく「死にたい」を、否定せずに、目をそらさずに、受け止めることは思いのほか難しい。
「…死にたいのですか」。
 その一言を言うだけなのに、喉が渇き、手がじっとりと汗ばんでいく。患者役の男性が切れ切れにつぶやく、身体の痛みの耐え難さと愛する家族を苦しめていることの耐え難さ、さらに彼らをのこしていくことに対するこころの痛みの耐え難さが、傍らで耳を傾ける私自身の身体を切り刻んでいくような、永遠にも思われる数分間。
 しかし、それはまだ序の口だった。実はその何倍もきつかったのは、私自身が患者役になって「死にたい」と訴える段であった。たった4文字のその言葉を自らの口を通して発話することで、言葉の沼に吸い込まれそうになる。看護師役を務めて下さった方は実際に緩和ケア病棟で働いておられる方で、非常に上手に、優しく語りかけて下さったのに、私は動揺し、混乱し、自らの感情の波に圧倒されてどうしても上手くつながることができなかった。立ち眩みをした時に視界が急に暗転していくように目の前にいるひとが遠く見え、何を信じればよいのかが突然分からなくなった。しかし同時に、この瞬間誰かの手を握りたいと、つながりたいと、声が聴きたいと、狂おしいほど求めてもいた−子どものころにプールで溺れた時のあの感覚だ。「死」というものの顔が、一瞬見えたような気がした。
 その瞬間、落雷を受けたように理解した。
「ああ、私は、死に面したひとの気持ちを、あまりにも分っていなかった」、と。
 いや、たぶん私だけではない。仕事として彼らに関わる人のどれほどが、“世間の人びと”のどれほどが、それを理解しているだろう。理解しようとしているだろう。

 あれからずっと考え続けている。

 傾聴とは何か。共感とは何か。死に面したひととの真のコミュニケーションとは何か。
 文献で、ネットで検索すると、さまざまな“模範解答”が山ほど見つかる。しかし、あの春の日、あの場で私が学んだのは、そんなありきたりなものではなかった。身体の痛み、こころの痛みのうずまく“淵”にあって、それでも生きているひとを支えること。それは、彼が、彼女が、その苦しみの深淵から伸ばした手に向かって力の限り手をのばし、しっかりと握り返すことではないか。声にならない声で呼ぶその声を聴きとり、こころの奥底からこたえること。こたえ続けていくことではないか。それは見方をかえてみれば、生きるもの同士が魂の底で出会う場、絶望の淵の孤独の闇に希望の光が差し込む場、“ふち=縁”なのではないだろうか。そこにきっと、ひととひととが支え合うケアの本質と、いのちの響き合いがある。

 これからの生き方について深い示唆を得ることのできた、素晴らしい研修でした。あの場を作り上げて下さった全ての方々に感謝します。

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