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Japanese Society for Palliative Medicine
News Letter No.81
日本緩和医療学会ニューズレター
Nov 2018  81
よもやま話
2018年は私の100歳の誕生年です
千葉県立保健医療大学
安部 能成

 第2次世界大戦前に生まれた大正世代の1918(大正7)年に3人兄弟の第1子として生まれました。恥ずかしがり屋で、同世代でも背は高い方でした。最初は大学で政治・哲学・経済を学び、議員秘書をめざしました。
 戦争が始まると勉強どころではなくなり、26歳で看護学校に入りました。そこで頑張っていたのですが、背中の持病が問題でした。次第に悪化し、手術を受けたのですが、やはり痛みは消えませんでした。手術してくれた外科の先生は、看護師を諦めるようにアドバイスして下さいましたので、大学に戻ることにしました。
 「戦時学位」を取り、ソーシャルワーカーとしての訓練を受けて、戦後の1947年には有資格者となることができました。病院ソーシャルワーカーとして働き始めた30歳の時、運命の人と出会いました。彼も母国で戦争に巻き込まれ、命からがら逃げてきたのですが、がんのために40歳で命を落とそうとしていたのです。担当者となった私は、彼のケアに励んだのですが、すっかり親しくなりました。彼は「僕は君の家の窓になろう」というメッセージとともにお金を残してくれたのです。
 当時の病院では、支配的倫理として患者は治癒されなければなりませんでした。治癒できない場合は、すべて失敗とみなされていました。患者には診断を告げないことが通常のやり方でしたし、死にゆく者は治療を回避されていました。彼の死後、ソーシャルワーカーを続け、「死にゆく人の家」のボランティアをすることにしました。
 夜勤専門看護師なら患者を持ち上げる仕事も少ないのではないかと、ある外科医に相談したところ、本当に死に逝く人を助けたいなら医師になるべき、との助言をいただきました。そこで、医学生となる決心をしたのです。結局、医師になったのは38歳の時でした。
 その後、治癒不可能な病気における苦痛の管理を研究しながら、同時にシスターの経営するホスピスで死にゆく人のために働きました。そこでは、一定の苦痛には一定の管理を行うというキッチリとした方法を採用していました。それにより患者は定期的に鎮痛薬を与えられ、「再び苦痛が出現して叫び声をあげるまで待たされる」などということはありません。これで患者の恐怖と不安は大きく緩和され、さらに苦痛も緩和されました。いわゆる難治性の苦痛など存在しませんでしたが、頑迷な医師には遭遇しました。
 身体的苦痛が軽減されると、次に精神的苦痛も緩和されることを発見しました。そして、死にゆく人の抱えるその他の問題、たとえば、褥瘡、嘔気、抑うつ、便秘、呼吸困難なども医学を用いて緩和しました。1963年からは定期的に米国と往来して苦痛緩和を研究しました。論文や本も随分たくさん書いて、実践報告に努めました。
 1967年には念願のホスピス建設にこぎつけました。そこでは、臨床・教育・研究を三本柱として活動しました。これをモデルとして、2000年までに英国とアイルランドには200のホスピスができました。私は誰でしょう?

(I'm Dame Cicely Saunders, a physician: born Barnet, Hertfordshire 22 June 1918; Medical Director, St Christopher's Hospice 1967-85, Chairman 1985-2000; OBE 1967, DBE 1980; OM 1989; married 1980 Marian Bohusz-Szyszko (died 1995); died London 14 July 2005.)

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